小島信夫生誕100年!ーーバーナード・マラマッド著「レンブラントの帽子」
2015年2月28日は、「アメリカンスクール」で芥川賞を受賞した故小島信夫氏の生誕100年である。
本来ならば自身の著書を読むべきだが、時間が取れないことと放置状態である「ガイブン日和」の更新もかねて、読んだバーナード・マラマッド著、小島信夫・浜本武雄・井上謙治訳「レンブランドの帽子」(夏葉社刊行)を再読してみた。
本作は表題作「レンブラントの帽子」をはじめ、「引き出しの中の人間」、「わが子に殺される」と三作の短編が収められている。今回はこのうち「レンブラントの帽子」と「引き出しの中の人間」を紹介することにする。
まず本のタイトルである「レンブラントの帽子」は、美術学校の講師を務めるアーキンが、職場の同僚ルービンがかぶっている帽子を、「レンブラントの絵画に出てくる帽子にそっくりで、いいね」と誉める。ところが、それ以来ルービンはアーキンと口をきかなくなり、態度も、よそよそしくなってしまう。
アーキンはあれこれ思い悩む。最初は、「なにか気に入らないこと言ったかな」と考えていたが、最後のほうは「あいつなんて」とかなり悪態をついている。感情の揺れ動きの描写がじつに秀逸でよい。
この作品のテーマは、勘違い。おちが滑稽であり、すきっとしてしまう不思議に魅力あふれる作品である。
続いては、「引き出しの中の人間」。
先日、発表された報道の自由度調査によると、我が日本は61位だそうだ。ちなみに小泉政権のときは24位、第一次安部政権は57位、民主党が政権を取ったときは16位だったらしい。
我々創作をしている者にとって、二次規制だの、児童ポルノ法がどうだの、と聞く。 確かにある程度の規制は必要だろう。小学生が性描写や残虐シーンの入った漫画や小説を読むのは、問題だと思う。とはいえ、近年は手軽にネットで読める時代になりつつある。
学校教育でもパソコンの授業があるくらいだし、たとえロックされていても知識のある子なら解除だってお茶の子さいさいだろう。
こういった問題は締め付けが厳しくなればなるほど、読みたい、見たいというのが、人間の感情ではないだろうか。
話を「引き出しの中の人間」に戻そう。フリーライターをしている一人のアメリカ人が訪れたソ連で、タクシー運転手兼ツーリストであるレヴィタンスキーと出会う。
この運転手はただの運転手ではない。当局の目を盗んで、小説を書いている。書きためた作品をこのアメリカ人にたくそうとするが、時代は米ソ冷戦時代。
いち旅行者である彼は、スパイ容疑にかけられるのは、ごめんだと断るが、レヴィンスキーは引き下がろうとせず、せめて滞在中に目を通してくれ、とお願いする。
彼の話によると、出版社に勤めている友人に見せたところ、「こんな反体制的な作品は扱えない」と断られたと言う。そのまま、彼はずっと引き出しにしまい込み、日の目に当たるチャンスをうかがっていた。
ようやく訪れた機会を棒に振りたくはないと、最終日にホテルへやって来る。レヴィンスキーの熱意に負け、持ち帰る約束をする。
以前、ダニエル・ハルムスを読んだことがあるが、合間合間に解説が入り、当時ソ連の作家たちは命がけで執筆をしていた。命を削ってでも書きたいという情熱に、感銘を受けた。
もし、これから規制が厳しくなり、創作活動を監視される世の中に、なってしまったらどうだろうか。命を削ってでも、書きたいと思うだろうか。
この作品を読み終え、そんなことをずっと考えている。